モノを書くということ。感想をいただくということ。

 さて、少し遅れてしまいましたが、18日の日記に少なくない反応をいただいたので、ここで返信させてもらおうと思います。こんなことなら、眠さに酔いしれてあんな文章書くんじゃなく、もっと真剣に書けばよかったなぁなんて後悔していません。むしろ絶望した(ぁ
 まず1/18におけるやまぐうさんの日記から。いずれかのアンテナサイトから見ていただけたのでしょうか、ありがとうございます。それとおそらく、初めましてでしょうかねん。こういった繋がりはあまり例がなく珍しいので、かなり喜んでおります。
 自身の作品に面白みを感じられること、これはモノ書きの生命線にも当たる、重要なことだとボクは捉えております。どんなに感銘を与えられる文章を綴ったところで、それが読者を始めとする第三者のみに宛ててしまうと、いつか自分のやっていることに疑問を感じるようになるでしょう。こんな文章を書いて、自分は楽しめているのだろうか。一体、何をしたいのだろうか、と。だからこそ、ボクたちはスランプになったり思い悩むようになると、原点に返ることが多いです。初めて文章を書こうとしたあの情熱は、いつまで経っても忘れていたくないものですね。
 けれどもう一方で、読者の存在はボクたちにとってかなりのウエイトを占めているはずです。それはやはり、感想をいただけるというところが大きい。プラスであれマイナスであれ、その評価は少なからず自作を省みるいい材料となります。感想をもらえることで、モチベーションが上がったりもしますね。つまりモノ書きとは、作者である自分との対話、それから読者の方の存在、その両方が不可欠であり、またその定義になるものであると提案しちゃったりします。
 作品を公開する以上、読者がいます。自分が楽しめればよいのだから、何を言われても関係が無い。見たくない人は見なければ良い。これらを唱える人たちは、先の定義からするとモノ書きには該当しません。雑記と作品との区別が出来ていないのではないか、とボクなんかは思ったりもしています。もしそれでも書き上げたものを公開したいというのであれば、まずそのスタンスの説明をどこかに記述しておくことをお勧めします。実際、それで嫌な想いをしたこともありますし。書くな、とは言いません。その旨を伝えてくれればよいのです。人にはいろんな考えかたがあるのですから。
 以上より、やまぐうさんの問いである「自分にとって面白いことならそれで閉じていればいい、なぜ他人に見せるのか、ということに対して」の回答としては「それがモノ書きというスタンスを取る上での、必要不可欠なものであるから」となります。そんな風に考えて、まぁボクはこれからもやっていこうかなぁと。長くなりましたうふふ。
 では次に、ブタベストさんの1/18の日記に関して。こちらも、縮み吾木香さんと共に初めましてですね。わざわざ取り上げていただき、ありがとうございます。サイトを少々拝見したんですけど、どうやらブタベストさんは絵描きさんでもあられるご様子。「昨日の絵」とリンクが貼られていたので見ると、「あんだこのエロスの極みは」と言いながら右クリック→保存したのもいい思い出です。大変けしからん。もっと描いて下さい(ぇ
 冗談はここぐらいまでにして、絵描きさんからコメントをいただけたのは驚きでした。作品を振り返ること、というのはもちろん作り手である両者の性質上、似たところも多くあるのでしょうかねん。SSもまた書かれているようですから、多面的に捉えられる視点の広さは羨ましいです。……まぁですがこんな伏魔殿サイトです故、絵描きさんとの交流は絶無に等しいことは言うまでもありませんので、ぜひ問い詰めないで下さいね。泣きませんけど、逆ギレしだしません。何はともあれ、これも何かの縁です。交流を深められればなぁなんて思ったり。
 それでは、お二方は作品のほうも言及していただけたようなので、こちらに返信させてもらいたいなぁと思います。自作に関することは、上述したもので代えさせてもらいますねん。
 順を追っていきましょう。まず『I am』なのですが、これは思い返してみるとなかなか面白い作りにしたなぁと。名雪観鈴、智代とそれぞれボクの大好きなキャラを用いて、それぞれで違ったものを題材にしているんですよね。名雪なら友情、智代なら異性間の愛情、そして今回の観鈴は、幸福に関してだっただろうと思います。
 観鈴は、よく笑う子でした。その口癖に「にはは」とあることからも、それは明らかでしょう。ですが彼女は「運命」(ネタバレのため、こう明記。まぁボク運命論者ですから、多少の語弊はあるかもわかりません)によって、なかなか笑うことが出来なかった。笑いたくても、笑えなかった。では、観鈴はどのような時に、笑えるようになるのだろうか。そんなことを考えて出来たのが、今作です。
 縮み吾木香さんのいう「大切な言葉」とは、ボクが一方的に邪推するとラストのほうにかかってるのかと思います。縮み吾木香さんが後述してくれているように、この二人は本当の意味で未だ笑えていないんですよねぇ。一人でも二人でも、彼らは笑えません。そういった意味では、まだ救えていない作品です。必要だったのはおそらく、「家族」あるいは「もう一人のわたし」に関するところでしょうねぇ。鋭いご指摘だと思います。ここは確かに書くべきだったと。今後の参考にしたいと思います。
 でもま、話は逸れますが、途中にある「月童の願いも、理が齎したものも〜」の下りは、個人的に気に入っていて、これはよく出来たなぁと思っています。気づいてくれた方がいらっしゃるかどうかは微妙ですが、これはBGMのタイトルをほぼ網羅して使いました。AIRがゲームという媒体であることを利用しているのぅ、と自分に関心関心。ほら、微妙にまたキモくなっt
 次は『ミルクの逆襲』と『果てしなく揺れるゆりかごから』を合わせて。どちらも失恋における短編ということで(後者はちょい違いますが)、基本的にありふれた内容ですわね。あとの共通点といえば、姉妹が絡んでくるあたりでしょうか。
 前者はコメディタッチで進みながら、最後のあたりで微シリアスに転換するという、流れの悪さがステキ。ボクよくこれやって後悔します。でもまぁ、節々に面白い文章があってまずまず言いたい事は言えたかなぁ、なんて。香里がちょっとあふぉな子になりすぎましたが(´・ω・) 一方で後者は、その点を上手く流しているように思います。雀のところがちょい説明ウザいなぁとは思いますがねん。ただ、ブタベストさんもおっしゃられているよう、ホイットマンのところは失敗しているかなぁと。どうもあそこが流れを悪くしているようにも。どうせなら、ラストのシーンで『草の葉』を読み返してみるとか、そういった演出もありだったと思います。でなければ、引用するに留めておくとか。ここは要検討ですねぇ。ちなみに、ボクがホイットマンを読んだのは高校の時で、内容はあんまり覚えてないです。だってあんまり面白くなかったんだもん……(ぉ 最終的には、どちらの作品も姉妹の関係が面白く書けていがったなぁ、なんて無粋にまとめてみます。
 で、最後に『18和音』。実はこれ、最初は日記に上げた作品でして、思ったよりもいい出来だったので少し変えて載せました。何気にこの中で一番のお気に入り。縮み吾木香さんからあった、朋也が電話の向こう側にいてもよかったのではないかな? という点は、確かにそれもありだと思いました。ただまぁ、あの二人が恥ずかしながら手を取り合って歌う姿を想像しながら読むと、ボクのサド振りがいかに酷いものかわかっていただけるかもしれません。うん。でも短くてもいけるもんだなぁって、こういうのを読むとつくづく感じます。
 おk、以上かしら。久しぶりに長々と書いてみましたが、思いの他長過ぎて読めないよあはは。区分けして書いたらよかったか……ううん。それはともかく、反応してくれた皆さん、改めてありがとうございました。これからもいい作品が書ける様、頑張りたいと思います。またいつでも、遊びに来て下さいね。以上で返信とさせていただきます〜。